みんなの交換日記

つながりがなさそうであるみんなの自由参加型交換日記ブログ

2022/01/29 おたけ

28日の朝、出勤した瞬間に「春を探してくれませんか?」と言われて、売場中を歩き回って春を探すことに。私は春生まれなので余裕でしょ〜って思いながら少しカッコつけてすぐに見つかると思いますって返事をしてしまった。

いざ探してみるとこれが全く見つからんのです。春。売場にあるのは一年中あるようなものばかりで春を連想させるもの、春を象徴するものなんてどこにもない。桜〜とか入学式〜とかそういうわかりやすいものが1つや2つくらい落ちていたっていいはずなのに!!

隅々まで歩き回った末にようやく春を4つみつけることに成功しましたが、今日の私は一日中「春はどこへ行った?」とブツブツ呟きながら店内を徘徊するヤバい店員になってしまっていた。

だいたい今日は久々にまとまった雪が降った日なのだ。朝の車窓からの景色は海と空と雪とがぜんぶおんなじ色でできていて、時々一応いるよ!って感じに出てくる太陽も薄いグレーみたいな色で全く存在感が無かった。
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働いている店にやってくる人たちを眺めているときは大抵2人組とか3人組みたいな、何かしらのペアや集団に意識が向いてしまう。実際一人客より多いし。こんなふうにふたりでとか、みんなで出歩くってことを最後にやったのはいつだろうなーって思いながら。ふたり、なら地元に戻ってきてからもあるな。2回くらい。3人以上となると学生時代にまで遡らないといけない。

毎週土曜日に配信される、いつも楽しみにしているニュースレターがある。そのニュースレターのとある回で暇は最悪みたいなことを言ってたんだけど、今日のレジ番の暇さはそういう最悪な部類の暇だったなーって思う。レジの前にいる恋人同士らしき二人組を眺めながらぼーっと「恋愛ってどーやるん?」って考えていた。暇か。

職場の同僚同士でも友達同士でも恋人同士でも、そこには何らかの親密さが発生しており、世の中の人たちは言語コミュニケーションや非言語コミュニケーションを通してその親密さがどういう類の親密さなのかをお互いに、なんとなく理解し合ってその親密な関係性を維持しているらしいじゃないですか。というのが今まで同じ時間を共有してきた人たちを見て、私がまあそうなんだろうなって理解した(ことにしている)ことなんですが、私はこの非言語コミュニケーションの部分を全く読み取れないことが多々あるんだろうなーって思っていて(これにも確信はない)。

それとは別に他者と(物理的に)触れ合いたいみたいな感覚もあんまりなくて、今ドラマ『恋せぬふたり』で知ってる人が爆発的に増えたアセクシュアルという概念に出会ったときはそれなのか?って思ったりしつつ、でもなんか実態にそぐわないよな〜っていうモヤモヤも通り抜けてきた。

だから自分が他者に対して感じているのが友愛なのか、恋愛感情なのかわからないことに加えて、他者と自分の間にある親密さをその他者は友愛と恋愛どちらに近いものとして捉えているのかをこちらからなんとなく推し量ることも上手にできなくてモヤるみたいなことが私の人生では繰り返されてきた。それに加えて別に性行為を期待しているとかでもないのにこの人が恋人であってほしい、特に親密で重要な唯一の他者であってほしいと自分が思っているように感じてしまうのはなぜ??という問題も。(好きと一緒にいると付き合うとセックスするって全部別物ってことくらいはわかっている)これらが組み合わさると、お互いに「わたしは(あなたは)何がしたいの??」状態になってしまう。

このモヤモヤを部分的に救ってくれる出会いをしたのが去年で。

これに載ってた 中村香住「クワロマンティック宣言――「恋愛的魅力」は意味をなさない! 」(60-69頁)という論考を読んでクワロマンティックという概念に初めて出会った。クワロマンティックを自認する人は恋愛感情と友情の違いがわからない、もしくは違いを区別しないことにしているというのが手短な理解像らしい。この論考ではさらに「恋愛の指向」や「恋愛的魅力」という概念が意味をなさないと感じる主体だというクワロマンティック概念を初期に唱え始めた人物たちが用いた定義が紹介される。それを知った時に本当に視界がパアッと開けたみたいな気分になった。論考の中で紹介されていた、恋愛的、性的、美的、感覚的など様々にある魅力の分類の困難は乗り越えられ得るという考え方や、その考え方に導かれた実践を知ることは様々な他者にありのままの自己を対峙させる勇気を私にくれたと感じる。

今までの私は恋愛?友愛?わからんわ…。みたいなモヤモヤを残したまま他者と関係を深めていくことが結構怖かった。それゆえにそんなことを考えなくても十分成立するはずの他者に対する優しさとか思いやりも疎かにしてしまっていて。極端な話、「特に親密で重要な唯一の他者」に対してしかそういう優しさや思いやりを発揮しちゃいけないって思ってしまっていたのかも?(でもそれじゃあ私の中にあるそういう部分をいつまで経っても誰にも知ってもらえないじゃんね??)(それに家族、恋人だからといってある人の愛や優しさ、思いやりを独占することはその人を社会から孤立させることになっちゃうのでは??家族、恋人だからってそんな権利持てるわけないのにね??) 友愛と恋愛感情を区別しないことにするという決意?のようなものによって初めてその恐怖を克服するスタートラインに立てたし、その決意はクワロマンティックという概念を知ることなしには(私にとっては)成し得ないことだったんだろうなーって思う。

何が言いたいかというとおたけは最近割といい感じです。少しずつでもモヤモヤをちゃんと時間をかけて打ち破っていく作業ってこういうことがあるからやめられない。良くない暇と言いつつ、こういうことをちゃんと考えられる程度の暇は自分に許し続けたい。

 

 

こんなふうに、私は一度モヤったり落ち込んでしまったりすると体力の限界まで考え込んでから力尽きて眠って忘れる…ってサイクルを辿るらしく、こういう時に寄り添ってくれる音楽をパッと思いつかんでした。こんど落ち込んだ時は悲しい曲と元気な曲、どちらも聴いてみて効果をはかってみようと思います。

メタルはどちらに転ぶんだろう。

 

(主に()内の部分、最初の更新から何回か書き加えてます)