みんなの交換日記

つながりがなさそうであるみんなの自由参加型交換日記ブログ

2022/11/05 おたけ

自室にあるIKEAの花瓶にはミリオンバンブーが3本ささっている。出会いは4月頃、春だからとチューリップの切り花を買いに行った花屋で。窓際の棚上の奥まったところを占拠していたそれらに突然心を奪われた私は、1本に確か300円ほどの対価を支払って家に持ち帰ったのだった。

何も知らない私は店員さんに「どれくらいもちますか」と尋ねた。店員さんは即座に、当然のように「いやもう、ずっと」と答えた。その迷いの無さにそのときの私は拍子抜けしてしまったが、今ならわかる。本当にずっと枯れない。枯れないどころか伸び続けてさえいる。

私はずぼらなたちなので、水の入った花瓶があれば、水の入った花瓶があるなあと思うだけで、次はこの日に水をいれかえねば…!などといった考えは滅多に思い浮かばない。思い浮かんでも、思い浮かんだなあと思いながら1週間以上は放置する。そんな感じでもこの植物は全く弱った素振りを見せないものだから、最近は元来のずぼらぶりにより拍車がかかっている気がする。

とはいっても全くこの植物に関心を払っていないわけではなくて、幹?茎?の独特の渦巻きや葉の光沢を美しいなあと思い、心癒されることが何度もあった。水換えを先延ばしにしている期間は、朝家を出る瞬間に、夜帰ると前触れもなく弱り果てているこの植物たちの姿を想像してしまい、そんなの絶対にいやだ…!と悲しい気持ちになってしまう。そんな心配をする私をよそに、花瓶の中の植物たちはぐんぐんと丈を伸ばし続けているのだが。

どれだけ気にかけているかということの濃淡の差はあれど、この半年ほどでこの植物たちは私の日常の一部として、欠かすことのできない存在になってきたなあと思う。

 

気にかけているということや、(自分にとって都合のいい存在として相手の姿を改変することを目指すようなことは絶対にせずに、むしろ相手の実存そのものを自分なりに把握する努力をしながらその存在を尊重し、祝福しつつ)自分の日常を形作るものだと思うことはひとつの愛情の形かもしれない。(注釈が長い) こう、愛情として捉えるとき、その愛情が深まればよりのびのびと育つことができる環境を整える努力をするのかな…?などといった大まかな想像ができなくもない。けれど時々、一昔前の自分は愛情という言葉から似たような想像ができただろうか…?と疑わしい気持ちになる。

私にとっては、愛とか、愛情という言葉で連想される感覚は後天的に獲得したものだとみなす方がしっくりくる。10代後半あたりはマジでなにもわからなくて、「愛…言葉の存在はわかるがめちゃくちゃ遠くにありしもの…」くらいに思っていたと思う。けれど、私には愛がわからないと思い切って口に出すとき、似たようなモヤモヤは案外自分の身近な人の中にも存在しているということに気付けることがある。私はその瞬間を経験することがめちゃくちゃ好きで、そうやって身近に見つけたモヤモヤを自分のモヤモヤと対峙させて、少しずつ愛らしきものの輪郭を掴んできたように思う。そして今もその途上であるし、その過程を共有してくれた友人たちのことはめちゃくちゃ最高で、大好きなかけがえのない人たちだと思っている。

 

ところで、愛という感覚を全く実感できない、実感したと思えない人は確かに存在する。だからといって、その人たちは劣ってもいないし、不完全でもない。そのことはめちゃくちゃ強調されるべきだ。そういった悩みを抱えている人や、悩みとはいかずとも、ないなーウケるーって思っている人、特に気にしていない人、誰もが幸せを感じられる世の中であってほしいし、幸せを目指すことをサポートしてもらえる社会であってほしい。

 

愛がわからないというとき、それまでの経験に便宜的に愛という名前をつけてあげることで次第に、その経験と名前の結びつきの必然性に実感が伴ってくる場合がある気がしている。この方法って結構有用な気がしているけど、一歩間違えば洗脳だよな…という怖さもある気がしている…。こわい…。悪用ダメ…。

私はどんなプロセスを辿ったっけと思うと、私は記憶力に乏しくて過去の経験を引っ張り出すことがめちゃくちゃ苦手なので、世間ではこれを愛と呼ぶらしい…という知識をとりあえずそういうものとして内面化したことにして、そこに実感が伴わなければ「愛ってこういうものらしい」の姿を少し変えてみることを繰り返していた気がする。こうやって書くとまるでプログラミングみたいだけど、本当にそうするしか方法がなかった。

今も愛らしきものの輪郭を掴んでいる途上だと先に書いたのはそういうことで、ともかくゼロ、もしくはマイナスをスタート地点として少しずつ少しずつ、それっぽいものを描き出せるか試してきたのだと思っている。そう言うと苦しい作業のように聞こえるかもしれないけれど、これが結構楽しいのだ。

 

ところで昨日は実家の家族の誕生日で、喜ばしい日であるはずだった。けれどそれを祝うという行為の中にはどこか義務感のようなものが含まれている気がしてしまって、素直に祝うことができなかった。そういうものなら仕方ないかと思うしかないのだけど、やはり手放しに祝えないというのは少し悲しい。でも仕方ない。1年後、数年後には状況が変わっているかもしれないし、もしかしたら明日にでも好転する些細な問題だったのかもしれない。素直に祝えなかったことは悲しいけれど、悲しいと思ったことはむしろ救いなのかもしれない。素直に祝えたら…と思ったという心を自分の中に捉えられただけでもよかった、そう思うことにしようと思う。

 

ということを書きたくて長々と書いてしまった。最近知ったんだけど、従兄弟がもうすぐ結婚するらしい(もうしたらしい?よくわからん)。めでたいな…。うれしいな…。私は正直社会の中で大人としてやっていく自信が全然ないのだけど、私として生きるのはめちゃくちゃ面白いのでまだまだ健やかにやっていきます。(正直社会がおたけに合わせろよと思う) 新しいZINEもそろそろ作るので、よろしくね!